雅楽の音色が鳴り響く東本願寺

京都のお寺

「バラバラでいっしょ 差異(ちがい)をみとめる世界の発見」

京都駅から烏丸通を北へ歩くと、東本願寺の築地塀に掲げられた大看板に目が留まります。立場や個性などの違いを互いに認め合い、尊重しながら共に等しい人間として救われる世界を見出そう。

それは仏の前では誰もが平等であるという親鸞聖人の教えに他なりません。約四百年前、東本願寺は十二代宗主教如により創建されました。この時、本願寺は東西に分派しましたが、発端は戦国時代に遡ります。

当時、本願寺は淀川に近い交通の要衝、大坂石山にありましたが、織田信長がこの地を欲したため、十年にわたり教団と信長との戦いが続きました。結局和睦したのですが、抗戦派の教如は和睦派と対立を深めました。

一方、信長の死後、本願寺は天下人豊臣秀吉に優遇され、大坂から京都七条堀川に移されます。しかし、教如が宗主となると抗戦派と和睦派の対立が再燃、教如は引退を余儀なくされたのでした。

その後、教如は徳川家康に接近。関ヶ原の戦いで西軍の動向を伝え、家康の勝利に貢献したといいます。

慶長七年、教如は家康から烏丸六条一帯の土地を寄進され、そこに東本願寺が誕生したのです。為政者の圧力に屈せず、宗祖親鸞聖人の教えを守りぬいた宗主により、江戸時代初頭、「お東さん」は生まれました。

一年で最も干菓子本願寺が賑わうのは、親鸞聖人の祥月命日、十一月二十八日まで八日間営まれる「報恩講」です。「南無阿弥陀仏」と大地を揺るがす称名念仏読誦の声が、周辺の道路にまで響きます。709畳の御影堂の外陣を埋め尽くす門徒三千人の声に、堂宇からあふれた数え切れない人々の声が重なります。

阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えれば誰もが極楽往生できる。約八百年前、親鸞が説いた教えは、武士、農民、漁民、猟師、商人など、あらゆる階層の人々の心をとらえ、親鸞は彼らを共に往生を願い念仏する「御同朋・御同行」と呼び、敬いあいました。

報恩講は、その恩徳を讃える大法要なのです。
平成15年12月より大修復工事が始まった(現在は完了)御影堂は、明治時代半ばに阿弥陀堂とともに再建されたものです。

東本願寺は、江戸時代後半に三度の大火に見舞われ、そのたびに再建されましたが、幕末の禁門の変でまたしても焼失。現在の堂宇の建設が始まったのは、それから16年後の明治13年のことでした。

再建事業を支えたのは、ほかならぬ全国の門徒達。待ちに待った「両堂再建」の喜びに沸く人々は、すぐさま建築資材を寄進しました。

資材は大阪港や神戸港に集められ、開通後間もない鉄道などで運ばれました。

翌年には、七条停車場(現京都駅)から専用線路を敷き、境内の南に設けた工作場に資材を直接搬入するという、当時としては画期的な方法がとられました。

門徒の尽力は資材の調達だけにとどまりません。ある者は木挽き、大工、彫刻職人として現場で身を粉にして働き、その給金まで寄進したそうです。工作場で病人や怪我人を手当てする医者もいました。それぞれが力に応じて、精一杯の奉仕をしたのです。

また、日本各地で、建築資材を運ぶための「毛綱」が、老若男女から寄進された髪で盛んに作られました。

髪の毛と麻などを撚り合わせて作られた毛綱は、太さ30cm前後、長さ50~60mに及びました。大切な黒髪を惜し気もなく切る若い娘、本山へ行くことは叶わないが、なんとか「お東さん」のために働きたいと、白髪まで差し出す老女もいたといいます。厚い信仰心によって作られた毛綱は全国で53本にも達しました。

寄進された53本の毛綱をつなぐと、長さ3000m以上、重さは9t近くに達し、毛髪を寄進した人の数は八万人近いと推定されています。

現在干菓子本願寺に展示されている毛綱は、新潟県の門徒から寄進されたもので、長さ69m、太さ約30cm、重さ約375kgです。東本願寺の力強くそびえる堂の前に立てば、再建に尽くした先人たちの熱き想いに触れることが出来るでしょう。

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